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第1章・第2章・第3章・エピローグからなる作品。
帰りの電車内でちょうど第3章まで読み切った。
よく出来た作品だと思った。
ダークなオカルトなオタクな匂いが立ち込めているなかに、推理小説のような趣もある。
第3章を読み終えページを繰ると、エピローグの文字。
正直、ここで終わりにして欲しいと思ったが、帰宅後エピローグを読み、感想が変わった。
エピローグも「エンド」までは到達しない。
その点において最後まで秀逸だった気がする。
けれど、いかに非科学的であろうと、そしていかにエゴイスティックであろうと、やはりそれは愛情より他の名では呼べない。
~第3章3~
とある人形師が「自分の作った人形にうりふたつな人間は死ぬ」と信じ、自分の息子の生き写しのような人形を作った際に、それを少女に作りかえる作業を指した一文。
ついつい愛情と言う言葉に反応してしまう。
こうなるともう敵も味方もありませんでした。戦闘もはじまりませんでした。イギリス兵とわれわれとは、いつのまにか一緒になって合唱しました。両方から兵隊が出ていって手を握りました。ついには、広場の中央に火をたいて、それをかこんで、われらの隊長の指揮で一緒にこれらの曲をうたいました。
~第一話 うたう部隊/四~
泣いた。
正確には、電車内だったので、潤んだ位だけど、あまり涙を流さない俺としては、泣いたも同然。
殺し合いをしたことはないが、命がかかった張り詰めた状況下で起こる「予想外」に弱い。
生きるか死ぬかでの告白とか。
あ。
でもレオンなんかは、愛ゆえの死か。
予想外ではないな。
デッドエンドから始めようって終わりだから。
何にしても人のために命を賭す覚悟。
それに弱い。
死んだら何も残らないというのもわかるが、それで死ねるなら本望だというのも少しわかる。
なぜ言い出せないかというと、それは大勢に引きずられる弱さということもあるのですが、何より、いったい今どういうことになっているのか事情が分からない。判断のしようがない。たとえ自分が分別あることを主張したくても、はっきりした根拠をたてにくい。それで、威勢のいい無謀な議論の方が勝つ―、こういう無理からぬところもあるようでした。
~第三話 僧の手紙/三~
人間って感じ。
「少年H/妹尾河童」を読んだ時にも同じようなことを感じた覚えがある。
それを読んで、Noと言えるようになろうと思った気がする。
「自分の経験を他人につたえることは、これほどまでにもむつかしいことなのか。また、他人の経験を具体的に知ることは、これほどまでにもできないことなのか」と思いました。たいていの場合に語られるのは直接の体験ではなくして、むしろある社会的にできあがった感想でした。自分自身が味わった事実は、はっきりとした形でとらえることがむつかしく、自分の判断はなんとなく自信がもてないが、社会的に通用している観念の方がたよりになるのです。
~ビルマの竪琴ができるまで~
「自分の今までの人生を人に伝えることが仕事(灰谷健次郎)」であるならば、仕事というのは非常に難しい。
つい、この夏にも失敗をしたばかりだから、実感がある。
それでも、俺はここで言う仕事をやって生きたいと思う。
そのように、俺を突き動かす目に見えない力が何かといえば、究極、自己顕示欲なのだろうかと思ってしまうのは、まだまだ未熟な証拠。
多分正解はもっと綺麗なはず。
著者の才能なのか、訳者の技量なのか、「ある微笑」に続きとてもすらすらと読め、且つ読後感の良い作品。
「ある微笑」はサガンの2作目の作品で、「悲しみよこんにちは」が処女作。
先に読んでしまった2作目に、より感動を受けたのは動かし難い事実だが、「先に読んだ」というのが大きな影響を及ぼしている気がする。
ストーリーはそれほど特異ではないが、描写が素晴らしい。
恋や恋愛、愛の倦怠と、それに起因する様々の表情の描写。
結局、人間の強さ、不変さをも見出させる作品だと思った。
もしも私たちが自殺するとしたら、それは弾を頭に撃込んでであろう、そして死の責任者の睡眠と血とを永久に紊す(ミダス)説明の遺書を残しただろう。けれどもアンヌは私たちに豪奢な贈り物をした。つまり、事故かもしれないと思わせる大きなチャンスを残したのだ。
~第11章~
少し前なら「私たち」を選んだだろうけど、今は「アンヌ」を選べるかもしれない。
そう思った。
死のうと思ったことが、空恐ろしく感じられてくる作品。
生きるということは、責任を持つこと。
“僕らのほうから駆けつけてやる!
僕らこそが救援隊だ!”
~七,砂漠の真中で~
砂漠へ不時着をし、遭難。
なんとか生き抜こうと渇きと戦いながら砂漠をさまよい、彼等の安否を気遣う人々、彼等の死に打ちのめされる人々への責任感を持って発せられた言葉。
“僕の目に、きみは気高さと親切に満ち溢れて映る、水を与える力をもった王者よ、あらゆるぼくの友が、あらゆる僕の敵が、きみを通ってぼくの方へ向かってくる、ためにもぼくには、もはや一人の敵もこの世界に存在しなくなる。”
~七,砂漠の真中で~
魅力的な考え方。
言葉では知っていて、頭でもわかっていて、それでも実感をもって、心に落ちることはなかなか無い現象だなと思う。
それを全力で伝える行為に感動する。
俺は、なんと人を大切に考えることが出来ない人間だろう。
と寂しく思う。
そう思わずに済む生が欲しい。
俺にも生きることが必要だ。
“―すると、そこへばか者が一人現れる。すると、あのように鋭かった眼力が、生まれてはじめて見あやまって、そのばか者に美しい光を投げかける。そのばか者が、もし、詩を口にすれば、彼女はさっそく、彼を詩人だと思いこんでしまう。そして、彼が穴だらけの床板を理解すると信じ、彼がファラオン鼠を愛すると思いこんでしまう。食卓の下の自分の脚のあいだで、蝮が尾を振るほどの心安立てを、彼が嬉しがっているものと思いこんでしまう。そして天然の花園のような自分の心までも彼に与えてしまう、人工的な手入れの行きとどいた花園だけしか愛しえない彼に。こんなことで、そのばか者が、王女様を、奴隷にして連れていってしまうというようなわけあいになる。”
~五,オアシス~
重ねて読むと皮肉で、ばか者には成り下がりたくないと思った。
あなたは奴隷にはならなそうだ。
と思ってみたりした。
最近手に取るのは、10代の頃に出会うべき作品が多く、これもその内の一つ。
この歳になって出会う日々というのも、悪くはない。
またこんなの読んで、と笑われそうだが、そんな気分なのだから仕方がない。
そしてなかなか面白かった。
恋の苦しさにスポットが当てられていたように思う。
結果的に血のせいで、もがき苦しみ祈るのが生なのか、といった所で幕を閉じる物語。
なんだよ。
俺のことかよ。
と笑えてきた。
確かに恋は悪くないけど、その起伏の危険性が今は少しわかる。
もう少し早くこの本とぶつかっておけば良かったと思うが、それならそれで、この、今ある感動はなかっただろう。
「びくびくすることはないです。肝心なのは、しゃんとした生活をして何事によらず夢中にならないことですよ。夢中になったところで、何の役に立ちます?波が打ち上げてくれるところは、ろくでもない場所に決まってますよ。人間というものは、たとえ岩の上に立っているにしても、やはり立つのは自分の両足ですからなあ。略」
~はつ恋より抜粋~
情け知らずな人の口から、わたしは聞いた、死の知らせを。
そしてわたしも、情け知らずな顔をして、耳を澄ました。
~はつ恋より抜粋~
そうは言うけど、それじゃちょっと寂しくないかい。
というところに愛をみつけたのだろうか。
少なくともウラジミール・ペトロービチは祈ることをみつけた。
まだよくわからない。
この本は解説も良かった。
文章が独特。
頭の中で誰もが考える、重要ではないこと。
不規則に外の情報によって巻き起こる感覚を、リアルタイムに文章に残していったら、こうなりそう。
電車/帰路
今日は空いてるかなぁ、なんて淡い期待は裏切られ、お、席空いてる、やっぱ運が良、と思ったらなんだよこいつ臭、だから空いてたのか、ってあら、正面の子可愛いな、○○何してんだろうな、それにしても―。
という様な文章が、無理なく展開されていく。
上記文章と違うのは、それでいて文章が意味を持ち、ストーリーがスムーズに流れていくところ。
個人的にタイミングも良かった。
ただし、読後、表紙の写真を見たらちょっと興醒めした。
何故海外の写真なのか。
著者の生い立ちに関係するのなら、納得せざるを得ないが、やはり宇佐美にして欲しかった。
もう一点気に入らなかったのは、巻末の解説。
あまりにも、力を込めすぎで白々しく感じた。
無知だった。
遺伝子組換え食品というのは、植物の遺伝子と植物の遺伝子を駈け合わせているものだとばかり思っていた。
若しくは遺伝子を弄くっている(寒さに強くする等)のだと思っていた。
まさか、バクテリアや昆虫の遺伝子を食物に組み込んでいようとは思っていなかった。
以前、豆やトウモロコシを扱う仕事をしていたのにも関わらず、知らなかった。
そして、既に死者が出るほどの悪影響が現実に出ているということも、この本を読んで、調べて初めて知った。
気になる方は「遺伝子組換え食品/植物にバクテリア」とかでググッてみるといい。
トリプトファンとかブラジルナッツ大豆とか実害が出ていることに驚いた。
内容は興味深く、本自体もなかなか面白かった。
学生の頃よく読んでいた「新保裕一」を思い出した。
ハードボイルドとまではいかないが、この手の小説でよく見られるどんでん返しが程よく散りばめられて引き込まれていった。
時限爆弾を仕掛けた。
というつもりになって書店に檸檬を置いて帰り興奮を覚える。
それで済めば良いのに、現代は本物の爆弾を使う。
さながら、人間自身が爆弾になったかのように爆発し、狂う。
俺だけは、私だけは、と根拠の無い思い込みを頼りに日々を過ごす。
大人になってもいたずらを出来る人間はそういったストレスに対する耐性が強いのだろうか。
あるいは自分のペースを掴んだ人間はと言い替えようか。
空が青い、海が蒼い、雲が白い、走れば苦しい、食べれば美味い。
などということでは充足しないのか。
などということで充足する程感じる暇がないのか。
などということに気付く暇もないのか。
そう考えると悲しい。
幸い、周りにはそうでない人間が多い気がしている。
そう思っている。
そうして「俺だけは」と俺も思い込んでいる。
正義と微笑・パンドラの匣
雨の中を、あたふたと床屋へ行く。実際なってない。床屋で、ドボルジャークの「新世界を聞く。ラジオ放送である。好きな曲なんだけれど、どうしても、気持ちにはいって来ない。大きな、櫓太鼓みたいなものを、めった矢鱈に打ちならすような音楽でもあったら、いまの僕のいらいらした気持ちにぴったり来るのかも知れない。けれども、そんな音楽は、世界中を捜してもないだろう。
~正義と微笑より~
あるよ。
と即座に思ってしまう。
2008年のクラブへ連れて行ってやりたいと思い笑った。
自由思想/反抗思想/破壊思想は圧制や束縛のリアクションとしてそれらと同時に発生し闘争すべき性質の思想です。
鳥が空を飛ぶときに、空気抵抗が邪魔をするから空気を無くしてくれと願い、それが叶ったとすると、鳥は空を飛べなくなる。
この鳥が自由思想です。
~パンドラの匣より~
鳥は大人になったら殺さなければならないのかという問いに「NO」を突きつける俺は、ガキ。
二作ともユーモアの溢れる作品。
電車の中でニヤニヤして読んだ。
6月毎日更新達成。
読み返すと無理矢理な日もちらほら。
でも一応毎日何かあるんだなとは思う。
単調でない。
年を取れば取るほど時間の経つのが早くなるというが、人間の脳的にどんなプロセスでそう感じるようになるのか。
単調で詰まらない生活がそう感じさせるのか。
でも楽しい時間は早く過ぎ、嫌な時間は長く感じることとは逆行する。
ここ数年の謎。
しっかりとした科学でなくてもいいから、何か面白い解釈はないのか。
小さな昆虫の触覚、2本の内の1本は諦めの触覚らしい。
いつ潰されて死んでしまうかわからない生物は、それだけを感じて生きていたならば皆発狂してしまう。
だから1本は恐怖を感じ取り、もう1本は何か恐怖の対象が触れた瞬間に恍惚となれる諦めの触覚なのだ。
快楽のまま死ぬことが出来るのだ。
創造主も良く考えたもんだよ。
~海の向こうで戦争が始まるより~
というような。
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